![20180126-00000008-goal-000-5-view[1]](https://livedoor.blogimg.jp/matome00000-sakasaka10/imgs/2/7/271851ec-s.jpg)
全国高校サッカー選手権で2年連続得点王を獲得するなど、長崎・国見時代から稀代の怪物ストライカーとして眩いスポットライトを浴び、将来の日本代表を背負うと期待された平山相太(32)が26日、所属するベガルタ仙台を通して現役引退を発表した。
平山は10年半所属したFC東京から昨シーズンにベガルタへ完全移籍したが、開幕直後に左くるぶし付近の腱を脱臼。当初は全治まで約12週間と診断されるも回復が長引き、プロ入り後では初めて公式戦に出場することなくシーズンを終えた。
それでも昨年末にはベガルタとの契約を更新。クラブの公式ウェブサイトで「悔しさを原動力に、ゴールを決めてチームの勝利に貢献したい」と抱負を語った約1ヶ月後に、電撃的な引退を決意した。26日に更新されたウェブサイトでは、断腸の思いが綴られている。
「度重なるケガのため、現役から退き、引退することを決断いたしました。開幕前の大事な時期にクラブに迷惑を掛けてしまうことを申し訳なく思っています。また、決断を尊重してくれたことに感謝しています」(原文のまま)
190cm、85kgの恵まれた体躯に搭載された平山の類稀な潜在能力が、いよいよ開放されると期待を抱かせたのは、2009シーズンの後半だった。敵陣で潰れ役になって味方を生かす術を覚え、攻守両面で労を惜しまずに走り、自らも肝心な場面でゴールを決める。
ハイライトは川崎フロンターレを2‐0で下した、11月3日のヤマザキナビスコカップ決勝。高さを生かして相手の攻撃をはね返した直後に約70mを走破し、ダイビングヘッドからダメ押しとなる2点目を見舞った後半14分だった。
国見から進学した筑波大学を、2年生だった2005年夏で休学。オランダのヘラクレス・アルメロとプロ契約を結ぶも、約1年後に帰国し、FC東京入りした平山は時間の経過とともに輝きを失った。
迎えた2009シーズンの序盤は、身心両面で袋小路に入り込んでいた。試合に絡めず、東京・小平市内のクラブハウスの間近に住んでいたにも関わらず、練習に遅刻したこともあった。
「サッカー人生が、このまま先細りで終わってしまうのではないか」
心のなかに大きな不安を抱えていても、どのようにして苦境を好転させていいのかがわからない。見かねた当時の城福浩監督(現サンフレッチェ広島監督)に、カミナリを落とされた。
「試合に出られそうなときと、そうでないときとで練習中のプレーにムラがある。サッカー選手は寿命が短い。時間の使い方がもったいないのではないか」
小嶺忠敏監督(現長崎総科大附高監督)に鍛えられた国見を卒業してからは、自分を真剣に怒ってくれる指導者に出会っていなかった。城福監督の言葉が心に響いたと、平山は後に語っている。
「大好きなサッカーを仕事にして、お金までもらっているのに。サッカーに人生をかけていたのならば、普通に考えれば遅刻などありえない。自分を見つめ直して、もっとしっかりしなければいけないと何度も言い聞かせました」
つづく
1/27(土) 5:01配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180127-00000001-wordleafs-socc
「自分の体の大きさを考えたら、通常の練習だけでは全身を使った運動がなかなかできなかったので」
成長の妨げになっていたマイペースぶりを返上し、貪欲に復活を目指した平山は5月の連休明けから1トップに定着。FC東京をナビスコカップ制覇だけでなく、J1でも5位に押し上げる原動力になった。献身的なプレーに、城福監督も思わず目を細めている。
「24時間のなかにおける、ファーストプライオリティーがサッカーになった。目に見える部分以外にも、自分を変えたいという意識がはっきりと伝わってくる」
覚醒しつつあった大器は、当時の日本代表を率いていた岡田武史監督の目にも留まる。若手だけの編成で臨んだ2010年1月のイエメン代表とのアジアカップ予選。初代表入りした平山は、いきなりハットトリックを達成する離れ業を演じる。
しかし、好事魔多し。2010シーズンは城福監督の更迭に揺れ、最終的にJ2へ降格したFC東京で7ゴールと気を吐いた平山だったが、1年でのJ1復帰を誓って残留した矢先に悪夢に見舞われる。
東日本大震災でリーグ戦が中断されていた、2011年4月に行われた練習試合で右足のすねを骨折。そのままシーズンを終えると、チームがJ1に復帰した翌2012年5月にも同じ個所を負傷。ピッチへ帰還したのは12月1日のベガルタとのJ1最終節、それも後半36分だった。
「試合勘も鈍るし、点を取る感覚も忘れかけていた。試合へ向けた準備や緊張感を持続させるのはもちろんのこと、90分間をフルに戦える体力もない。練習だけではコンディションが上がり切らないし、体も何となく締まっていなかった」
ほとんどを治療とリハビリに当てた2年間を、平山はこう振り返ったことがある。それでも、2012シーズンのオフに届いた、J2クラブからの期限付き移籍のオファーを受諾していたら、コンディションを取り戻すという意味でも、その後のサッカー人生は変わっていたかもしれない。
「いざFC東京を離れると考えたときに、このチームでプレーする自分しか想像できなかった」
熟慮を重ねた過程で、FC東京への愛着を再確認した平山は残留を決意。あえてイバラの道を歩むも2014年9月に右足首の内側を骨折して戦線離脱。患部に埋めた髄内釘を除去した影響で出遅れた2015シーズンも、公式戦出場はJ1での2試合だけにとどまった。
そして、心機一転、完全移籍とともに再起を目指した新天地ベガルタでも、けがの連鎖を断ち切れなかった。復活への手応えをつかめなかったのか。ウェブサイトに寄せた自身のコメントを、「度重なるケガのため」と綴り始めた心情は察してあまりある。
高校時代に放った圧倒的な存在感。大きかった期待の反動として浴びせられたバッシング。24歳のときに見せた輝き。そして、決して下を向くことなく、けがと愚直に戦い続けた姿。波瀾万丈に富んだサッカー人生に自ら終止符を打ち、平山は静かにユニフォームを脱いだ。
(文責・藤江直人/スポーツライター)
日本のスポーツ界で怪物なんて言葉が合うのは松井秀喜だけ
勝手に期待する方が悪い。
ただ体格が良くて選手権で得点王になったんじゃなくて
ボールコントロールの柔らかさとか、ポジションセンスの良さとかも期待させる要素であったんだよ
ヘラクレスで8点とった辺りまではまだ未来は明るかったのに、本人の向上心の無さが響いてJ期間後はずっと右肩下がり
怪我は不運だけど、やっぱり意識の問題もあったと思う
心・技・体すべてそろってこそ一流になれるんだなぁとつくづく
国見高校の監督だけは、こいつの本質を見抜いていた。
練習嫌いと現状認識の甘さ。
一言でいうとハングリー精神がない。
にも拘わらず、世間がちやほやするものだから
監督は口が酸っぱくなるほど注意していたというが
全く変わらなかった。
高校当時からスター性を感じる顔つきではない
教育者としてちゃんと見てたんだよね
こんな体で走り回ってたら普通に壊れるわ
時代遅れの無知か自分が小さすぎて190cmをとてつもない巨人に思ってるか
190cmなんてサッカーでももう普通にいるし190cmの人間が走り回って壊れるなら
バスケやバレーの選手なんて存在出来ない、怪我する人間はどんな小さくも怪我をする
無理無理
外国人とは作りが違うわ
サッカーなんか170前後でも世界トップクラスがいる運動量のスポーツ
日本人の作りで190は地雷案件
これだもんなぁ
話題性・期待値が一番高かったのが平山で
試合見て将来期待したくなったのが水野と家長で
実際にA代表で実績残したのは本田
そんな感じ
これに尽きる
引用元: http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1517033273/

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